道の駅象潟「ねむの丘」のレストラン眺海
レストラン眺海で夏野菜カレーを頂く
<2階から1階の物産館を望む>
<レストラン眺海は2階>
<レストラン眺海からの眺望>
<夏野菜カレー>
<レストラン眺海入り口前の掛け軸>
◇ 象潟は「九十九島、八十八潟」、あるいは「東の松島、西の象潟」と呼ばれたように、かつては松島同様無数の小島が浮かぶ入り江だったが、文化元年(1804年)の大地震で干潟に変わった。陸地化した土地問題で本荘藩と紛争となったが、二十四世全栄覚林(生年不詳-1822年、仙北郡角館生まれ)は、命がけで九十九島の保存を主張した。
◇ 元禄2年6月、俳聖松尾芭蕉が訪れて『奥の細道』のなかで、「九十九島(つくもじま)」と呼ばれた当時の象潟の景観を絶賛している。『奥の細道』最北の地、ここで芭蕉は、中国の悲劇の美女西施を思い浮かべ、「ねぶ」を「ねむの花」と「眠る」にかけて、
“ 象潟や 雨に西施が ねぶの花 ”
(雨にけむる象潟は、あたかもまぶたを閉じた西施のように美しい)
と詠んでいる。
芭蕉はまた松島(宮城県松島町)の景観との比較もおこなっている。このなかで「干満珠寺」として登場するのが蚶満寺である。
ウィキペディア・フリー百科事典より引用